よくテレビなどで「あなたの最も好きな曲は何ですか」と言うアンケートをとることがあります。ベスト50を集計すると必ず入っている常連のアーチストがいます。不思議なことにビートルズの曲はベスト50に1曲も入っていないことがあります。ビートルズと同時代のアーチストは何人か入っていますので年齢層の問題ではありません。それに、ビートルズは若い人にもファンが多いはずです。おそらく投票した人達は知らず知らずのうちにビートルズの曲をヒットパレードとは別格に見てしまっているのだと思います。僕も投票をしたら、おそらくビートルズの曲は入れないかもしれません。「ホテル・カリフォルニア」「明日にかける橋」「青い影」「素直になれなくて」「ボヘミアン・ラプソディー」などを選びそうです。もし人生を変えた曲を選ぶとしたら間違いなくビートルズの曲を選ぶでしょう。
白井康則
ビートルズの特殊なところはアイドルとして女性に人気があったことと、同じくらいに男性にも人気があったことが上げられます。いまではごく普通のことですが、当時(1960年前半)としてはかなり珍しいことです。そういえばボブディランもそうでした。
60年後半から70年に入るとポップスも高度になり、かなり男性ファンの多いグループもたくさん現れて来ました。しかしこの時代では異例のことだと思います。
ビートルズの曲をよく聴いてみると、難しい曲が多く売れ線の曲があまり無いことが分かります。何故か分かりませんが、その必要が無かったと言う事でしょうか。「プリーズ・プリーズ・ミー」や先にあげた「恋を抱きしめよう」は数少ない売れ線の曲と思います。
ビートルズが単にファンのため、あるいはコマーシャル的な目的で録音したものはリンゴスターが歌ったナンバーでしょう。どう考えてもジョンかポールが歌ったほうが良い出来になると思われます。映画「ヘルプ」の主人公がリンゴスターであったのもファンサービスだと思います。
白井康則
ビートルズが他のグループと違う点はアルバムに入る曲と、シングル用の曲を別々に書いていたことです。これは当時としては異例のことだと思われます。当時の歌手やグループはシングル曲中心で、曲がヒットすることが最大の目標でした。日本も同様ですが、シングル曲が3枚ほど発売されたらA面とB面を合わせて6曲になるので、その他の他人のナンバーやスタンダード曲を足して全12曲のアルバムを発表するというのが普通でした。
僕は当時、ビートルズのヒット曲が何故アルバムに入っていないのか不思議に思っていました。例えば「恋を抱きしめよう」と「デイトリッパー」がA面B面になっているシングルレコードがアルバム「ラバーソウル」と同時期に発売になりました。勿論どちらもかなりヒットしました。シングルとアルバム両方が売れているわけです。
白井康則
4人編成で中心のボーカルリストが2人いるというスタイルが魅力です。曲によってリンゴ以外の3人が2本のマイクに向かって入れ替わりにコーラスをつけるスタイルがビートルズの本当のスタイルです。ジョンとポールという個性や声質の全く異なった2人が曲によってリードヴォーカルを取り合うスタイルが魅力なのです。当時の「ローリングストーンズ」や「フェイセス」や「アニマルズ」のようにボーカリストが固定しているグループとは全く違います。
曲によってリードヴォーカルが代わるグループは他にもありました。ラスカルズやホリーズやビージーズなども曲によってヴォーカルが変わるスタイルでした。その後、CSN&Yなどこの形式をとっているグループがたくさん出てきました。ただし、ビートルズの場合は全く違い、曲によってリードヴォーカルが入れ替わったり、コーラスが入れ替わったりします。「ハードデイズナイト」のように初めジョンがヴォーカルをとっていて、サビの部分でポールに入れ替わるのという曲もあります。
当時はモニターシステムが不完全で、大会場ではメンバーの歌声は聴き取りづらかったと思われます。そのため二重唱のようなナンバーはお互いの声が聴きとれるように二人で1本のマイクに向かって歌っていたのだと想像しています。日本公演の「ベイビーズインブラック」がこのスタイルでした。
白井康則
なんといってもビートルズの最大の魅力は自作曲の良さにあります。 1965年以前はジョンが傑出しており、1966年以降はポールが中心になっています。驚くべきことはデビューする前からかなりの名曲を書いていたことです。ハンブルグ時代のライヴアルバムには既にビートルズのファーストアルバムに入っている名曲を演奏しています。ビートルズの名曲ベスト10に入ると思われる「アスクミーホワイ」などがその例です。
さらにデビューしたての頃に他の有名な歌手のために曲を書いていることからも彼らの曲作りの手腕が感じられます。最も有名なのはピーター&ゴードンに書いた「愛なき世界」ですが、普通のグループであったらこのような傑作を自分たちで録音しないのはもったいないと思うことでしょうね。名曲「ノーリプライ」も初めは他人に書いた曲です。さらにファーストアルバムに入っている「ミズリー」もはじめは「悲しき片思い」などで当時日本でも人気があったヘレンシャピロに書いた曲です。何とヘレンシャピロの事務所は当時駆け出しのビートルズが作った曲のレコーディングを断ったそうです。現代においてもこれだけの名曲をコンスタントに書いていたグループは見当たりません。
白井康則
伝説のオペラ歌手であるマリア・カラスは歌劇のレコードが名演ばかりですが、1960年になるとファルセットが不自然に聴こえてしまいます。ただし、これはあくまでも僕の感想です。1964年にプレートルの指揮で歌った「カルメン」のレコードは最高の歌唱とされていますが、やはりファルセットが極端で不自然に思えます。やはり1950年代までのカラスに魅力を感じます。
歌手を評価するのはやはり初期の最も優れていた頃の作品を聴いてみないと本当の評価は出来ないと思います。それにしてもあの美空ひばりさんは全てが全盛期で「東京キッド」から「川の流れのように」まで全然変わらないのはなぜでしょうか。
白井康則
弘田三枝子
弘田三枝子さんのエピソードとしては「人形の家」でイメージチェンジをしたことでしょう。たしか「ミコのカロリーブック」とかいうダイエットの本を出版してかなり売れたと記憶しています。
彼女のイメージとしては「人形の家」「ロダンの肖像」などの一連のヒット曲ですが、彼女の本当の魅力はデビュー当時の日本人離れした圧倒的な歌唱力にあります。「ヴァケーション」「子供じゃないの」「はじめての恋人」など素晴らしかったです。
当時の音楽雑誌「ミュージックライフ」の人気投票では、女性歌手部門で彼女がダントツの一位を独走していました。それも二位の歌手を圧倒的に引き離しており、いつも弘田三枝子さんが一位で二位以下の歌手はよく入れ替わったと記憶しています。やはり彼女の魅力はパンチのきいた日本人離れした圧倒的な歌唱力にあり、リズム&ブルースやジャズもかなり歌っていました。当時アメリカにあこがれた若者には弘田三枝子さんの歌唱はかなり衝撃的でした。
白井康則
彼のイメージはなんと言っても世界平和を歌ったパフォーマンスで、曲としては「イマジン」が代表曲として取り上げられることが多いと思います。しかし彼の魅力はやはりビートルズ時代の楽曲で、それも1966年以前でしょう。ビートルズはやはりジョン・レノンが最も影響力があった人物だと思います。1966年以前にジョンが作った曲はビートルズの一番の魅力だと思っています。「アスク・ミー・ホワイ」「プリーズ・プリーズ・ミー」「アイル・ビー・バック」「ノー・リプライ」「恋に落ちたら」「イン・マイ・ライフ」などたくさんあります。ジョンは1966年頃からライヴに魅力を感じなくなったのか、演奏を間違えたりあまり熱が入っていないことが多くありました。特に1966年の日本公演は最悪でした。1965年以前のビートルズのライヴは本当に素晴らしいものです。この頃の名曲は「イマジン」の比ではありません。それにビートルズ初期の名曲をハンブルグ時代から作っていたことは驚くべきことです。(もちろんポールもスゴイ)
白井康則
彼のイメージは1970年頃にカムバックしたあのキンキラな衣装でバックに大勢のミュージシャンを従えた姿でしょう。そんなステージを映した「エルビス オン ステージ」という映画も有名でした。でも彼の本当の魅力は1950年代後半のスコティームーアやビルブラックをバックに配し、ギターを抱えブレザーを着流したあのスタイルです。
あの頃の歌唱は本当に素晴らしく、日本の歌手はほとんど彼のスタイルをコピーしていました。「冷たくしないで」「ハートブレイクホテル」「ハウンドドック」「監獄ロック」「好きにならずにいられない」など名曲がいっぱいありました。
白井康則