かつて私が関わっていた全国労働衛生団体連合会(全衛連)の理事会に、宮城県の「杜の都産業保健会」新たに山田章吾さんという方が理事に加わりました。山田さんは、長身で矍鑠としていて、目力のある方。その後も、理事会で顔を合わせることがありましたが、直接お話しすることもなく、山田さんが医師であるのか、あるいは事務屋であるかもわかりませんでした。
ある時、ネットに山田章吾さんのことが載っているのを目にし、その内容が感動的なものでしたのでここにご紹介します。
(ヨミドクター 東北大病院100年 2015年12月17日の記事を引用)
東北大病院の正門前にそびえる高さ約3メートルの救命救急の碑。元病院長の山田章吾(67)は碑を建てるきっかけになった16年前の事故を一日たりとも忘れたことはない。
1999年6月23日 東北大学病院正門前の歩道で自転車に乗っていた女子高校生が、車道に倒れ、市バスに轢かれ急車で搬送された。搬送先は、目の前の東北大病院ではなく、約3㎞離れた別の病院。当時、東北大病院は救急の診療は夜間や休日に限られ、現在のように常時患者を受け入れていなかった。
女子高生は3時間後に息を引き取った。
事故から4年後の2003年、両親は東北大病院に呼ばれた。病院室で謝罪したのは、その前年に病院長に就任していた山田章吾先生だった。山田先生が病院長になって最優先課題としたのは、救急医療の充実だった。専門はがんの放射線治療で門外漢だったが、事故現場に絶え間なく手向けられる花を見て、碑を建てることを決めた。
2004年の除幕式で、山田先生は「救急医療に対する東北大病院の決意を示すもの」と述べた。「目の前で倒れた人に手を差し伸べることができなかった。ここで医療に携わる者は、その反省をずっと胸にとどめて欲しい」と願いを込めた。
2006年、院内に開設された高度救命救急センターは、東日本大震災の際、80人を超える患者がヘリで搬送されるなど、多くの命を救った。
私は、「袖触れ合うも多生の縁」という言葉を、私がよく知っている人も、それほど知らない人も、袖が触れ合う程度であれば、縁のあった人と捉えて生きてきました。そして、広い意味でそのような人たちを知り合いと呼んできました。これは人と人の出会いを、広げる力があり、お陰様で顔が広くなりました。