小象のしっぽ(小象の会ブログ)

小象の会(NPO生活習慣病防止に取り組む市民と医療者の会)は一般市民の方と医療者が力を合わせ、生活習慣病に関する様々な情報発信を行っているNPOです。このブログでは、メンバーの趣味や創作など、日々の生活を彩る様々な事柄について気楽に掲載しています。

2022年05月

随想「傷だらけの両手」を読んで

 526日の千葉日報9頁に佐藤学・東大名誉教授(教育学者 著書多数)の随想が掲載されています。幼少期の佐藤さんは、仮死状態で生まれ、度々ひきつけを起こし、運動の障碍も強く、すべり台の階段が登れなかった。計算間違いが多く、多動で授業も15分と持たなかった。教科書やランドセルも無くした。運動会ではいつもビリ。一方、読むのが大好きで、音楽も大好きだった。妹の習ってきたピアノの練習曲を聴くだけで演奏できた。手先も器用で、両親は将来時計職人にしようと思っていた。障碍のメリットは大きかったと書いてあります。両親は山や川で存分に遊ばせてくれた。そして良い教師に巡り会った。障碍者とすぐに仲良くなった。問題行動のある子とすぐ仲良くなった。ところが運動能力は徐々に改善、高校では器械体操などはトップレベルになった。今も多少の障碍はあり、電話番号まだうまく押せないし、九九も間違える。

 学校は学習障碍の子ども達を障碍者として扱っている気がするという。子ども達を信頼と愛情で包み込んでほしいと。父上の両手は傷だらけであったが、「酒飲みだから酔っぱらって」と終生言っていたが、ひきつけのときに、父が息子の舌を守ったのだった、と。

 実にそのときの状況では人を判断できないし、長い目で見ないといけないと思いました。両親の信頼と愛情が、佐藤さんを良い方向に向かわせたに違いありません。  篠宮正樹

坊っちゃんとターナー

東京都美術館で開催中の「スコットランド国立美術館展」を観ました。時間予約制でしたが、かなりの人出で、世界有数のヨーロッパの美術館展への関心の高さを感じさせました。20歳前のベラスケスが描いた「卵を料理する老婆」のリアリティに驚嘆し、貴族の婦人などを描いた肖像画、スコットランドの風景画に、近代ヨーロッパ美術の優雅さ水準の高さを知らされました。その中に、英国を代表する風景画家ウィリアム・ターナーの作品「トンブリッジ、ソマー・ヒル」があり、夏目漱石の「坊っちゃん」の一節を思い出しました。

坊っちゃんが四国の中学校教師に赴任したばかりのころ、教頭の赤シャツと美術教師の野だいこに誘われて船釣りに出かける、その時の会話にこうあります。「『あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘かさのように開いてターナーの画にありそうだね』と赤シャツが野だに云うと、野だは『全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ』と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。」教頭の、知性を鼻にかけたような言葉に追従する美術教師。二人の俗物ぶりを表すのに、うまくターナーが使われています。当の漱石は英国に官費留学し、人種差別や、貧困、神経衰弱に悩まされながら、否も応もなく英国の文化の洗礼を受け、ターナーの絵画も見たことでしょう。私はと言えば、この「坊っちゃん」の一節によって、たった一人だけ、偉大な英国風景画家の名を知ることになりました。 小倉明

『レジリエンス人類史』では

 『レジリエンス人類史』(京都大学学術出版会 2022年)の中で、阿部健一氏・山極壽一氏は、「人新世は、人類史と地球史が初めて交差した時代。地球に比べてはるかに小さいあなたの行動が、巨大な地球に影響与える。」「地域に根ざしながら、巨大な地球システムとのつながりを意識する。これがバナキュラーなグローバリズムであり、レジリエントな地球をデザインすることができる。」「食を与えてくれた地球の恩恵を未来に残そう」と述べておられます。ハチドリのひとしずくにも及ばないとしても、自分も何かしたいと思います。 篠宮正樹

永遠ということ

 人は何かを尊び強調したいとき「永遠に」とか「いつまでも」と言います。何が永遠か、というと「巨人軍」だったり「二人の愛」だったり「祖国」のように、人が大切に思うものが対象なのです。ところが最近はちょっと違っている。「永遠に飛ぶ紙飛行機」というものが登場し、youtube で見てみると、たしかによく飛ぶが、計測してみると、永遠ではなく、長くて40秒くらいでした。「永遠」の仲間に「無限」があり、「無限キャベツ」という調理法があります。試してはいませんが、キャベツが無限に食べられるわけではないと思われます。これらを命名した人は、永遠や無限が、「普通よりいい」くらいの意味で使っているのでしょう。

ある男がラブレターの中で、「あなたを明治神宮絵画館前で毎週日曜日午前10時にいつまでも待っています」と書きました。学生の頃、私はその近くに住んでいたので、そこを通るたびに、「あの男は言葉通り今もここで待っているのだろうか」と思ったものです。しかし、一度もそれらしき姿を見たことがない。けれども私は「いつまでも」それが忘れられないのです。何の関係もないのに。そして空想しました。男は言葉通り、10年も20年も待ち続け、50年たった日に相手の女性がそこに現れる。さてどうなるのか。これは一種の不条理劇ですね。 小倉明

To be, or not to be

 河合祥一郎氏の「新訳 ハムレット」(角川文庫 2003年)では、訳者あとがきに “To be, or not to be, that is the question.” についての、1874年から2003年までの43の日本語訳が紹介されています。とても興味深いものです。「存ふか、存へぬか、それが疑問ぢゃ」坪内逍遥(1907年 本邦初演)など。巷間言われる「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」はそれまで、そう訳されたことは無いことが判ります。河合氏は、観客が最も受け入れやすいこの訳を初めて(!) 43番目として採用したとのことです。先ごろ、ゼレンスキー大統領が演説でこの一節を引用した際に、これをどう訳すかが新聞で取り沙汰されていました。 戯曲の翻訳とは異なり、政治的な意図が盛り込まれるので問題は別なのですが、興味深く読みました。   篠宮正樹

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