開業医の家に生まれ育った私が、結局医者になれなかったという話です。

 私が生まれたのは第一次ベビーブームの時期、当時の開業医は、職住一体。小児科であったので、子供の泣き声が一日中聞こえる毎日でした。子供さんはなぜか夜や週末に症状が急変することで、診療に来られることが多く、そのような環境の中で私は育ってきました。

 そのため、家族でのまとまった行事は後回しになりますが、それを不満に思ったことは無く、父が医者であることは、誇りでした。

 自分の将来を、父から強制されたことは一度もありませんでした。しかし、自然と医者になろうという気持ちを持つようになったのです。余談ですが、父親が勤務医の場合、子供が跡を継ぐ意識(義務感)はそれほど大きくないように思えました。

 小学校は市内の公立でした。名門中学に進学しようと神奈川の栄光学園と国立大学の付属中学校を目指そうとしましたが、栄光学園はクラス担任から無理だからあきらめるよう諭され、付属中学校は不合格でした。ということで小学校と同学区の中学校に進学しました。それなりに勉強はしました。(後から振り返ると、「それなりに」では足りなかったことを思い知ることになります)。当時、市内の義務制の中学校は、上位二校のレベルが、特に高く、子供に将来をかける親たちの、いわゆる越境入学が散見されました。

 今では中学生が塾に行くことはそれほど珍しくはありませんが、当時はメジャーではなく、私塾に行く人がわずかに見られ、それなりに成果が表れました。

言い訳ではありませんが、私は学校の勉強だけで高校を受験した結果、県立は不合格で、私立高校に入学、ここで大学の医学部を目指すことになりました。

 私の行った高校は、生徒の自主性を重んじる方針で、三年生では自習できる時間が取れる配慮がされていました。私はごく普通に勉強をしましたが、自信を持てるレベルには至りませんでした。

 私は、私立の医学部を受験しましたが不合格。私の記憶では、受験した大学の合格率は約20倍、しかも、この年は東大紛争により東大受験のなかった年で、東大理Ⅲを本来受ける予定の受験生が受験先を切り替えるか、浪人して翌年東大を受験するような医学部受験には厳しい状況でした。一方、昭和40年代は国民皆保険制度の定着による医師不足や医療水準向上の要請などに対応し、医学部の拡充が図られた時期でもありました。

 結局、現役受験に失敗し、さらに一浪しても医学部に合格することができず、止む無く方向転換し、二浪して文科に進み、私の医者への道は終わりました。

 父は、本当は私を医者にしたかったのだと思います。私は父に申し訳ないという気持があり、それをいまだに持ち続けています。

教訓:少年易老学難成   
                                       櫻井 義人